単純じゃない、うたを手話にするということ
”手話歌”ってきいた(みた)ことがあるだろうか?
手話歌とは、童謡でも、J-POPでも、歌をうたいながら、その歌詞に応じた手話訳をつけて、
手振りを交えながら歌われる楽曲のこと。
いま結構増えているようで、教育現場でも、動画配信サイトなんかでも増えてきているようす。
実は、この手話について語るブログを書き始めた背景にも、
私自身が企画者となり、歌い手さんにうたってもらい、アニメーションをつけてもらって、オリジナルの手話歌にあたるものをつくったことがある。
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これについては、手話に通じている知人を頼って手話を教えてもらったり、クリエイターさんたちにも思いを共有して、
アニメーションもなるべく親しみやすく、わかりやすく、かわいらしく作ってもらったり、いろいろ工夫や苦心はした。
これを通じて、「手話ってこんな風なんだ!」と興味をもってもらえる方が出てきたらたしかに嬉しいとは思う。
ただ、その一方で「うたを手話にすること」がそんなに単純でないことも、ある程度理解もしているつもりだ。
そのうたは、だれにむけたものか
私がはじめ、手話歌をつくりたいと、知人に相談したとき、
「これは前提として、話しておきたいことなんだけど…
ろう者(聴覚に障害があり、日常的に手話や、筆記、日本口語とは異なる手法でコミュケーションをとることが多い方々)の人たちの中には、
”手話歌”を喜ばないひともいる、批判するひともいるってことを知っておいてほしいんです。」
ということをまず教えてもらった。
「ろう者の人たちが聴こえない”音楽”に、手話をつけて(ろう者の方にむけて)わかりやすくしたよ、というのは、
聴者(耳が聞こえて、口語も普通にできる)の独りよがりになる可能性もある。
聞こえる側の一方的な押し付けのようにもみえるかもしれない。」
がつーんと何かを頭がうつような気がした。
そうか…私にはそこまでの思慮もなかったし、そんな深い考えもなかった。
このことをはっきりと言語化してくれている記事もある。↓
note.com
とても分かりやすいし、考えさせられる。
それを考えたうえで、私はつくりたいと踏み切ったわけなのだが、
それはだれにむけてつくろうと思ったのか、という点がある
だれもが、想いをつたえるひとつの方法として
前回の記事でも綴っているが、私がいま手話に惹かれているのは、
コミュニケーションのありかたとして、手話というもの自体がとても魅力的だと思うためだ。
そして、聴覚にかかわらず、だれもが「みる」ことば、「体で表わす」ことばとして、
使えていいものだと思うためでもある。
手話をひとつの言語文化として育んできた方々の努力や苦労には本当に敬服してやまない。
所詮聞こえる側の自己満足でしかないと思う方がいても止む無しではあるけれど、
「知らない」ことは、「ない」ことになってしまうのがもったいない。
だってとても素敵なものであるのに。
感覚的に想いを伝える方法のひとつとして、手話があってもいいのではないかと思う。
私は、小学生のときに初めて、音楽の時間に手話をつけた歌に出会った。
それを今でも体で覚えているくらい、体の動きと、言葉と、こころのうごきが重なるという経験は鮮烈なものだった。
当時はそこまで深く考えていなかったけれど・・・
でも、自分の知らない世界をしること、それをもっと知りたいと思うこと、
それがどのような手段であっても(誰かを故意に傷つけるものでなければ)
あってもいいのではないかな。
ろう者の方々が大切に守ってきた文化を一方的に、横取りするのではなくて、
一緒に同じ暮らしをいきるなかで、育んでいけたらいいのに。
私もまだまだ勉強不足であるけれど、
そういうことも含めて、手話歌をつくってみて、とても大きなまなびがあった。
そんな発見ひとつひとつも、これから少しずつ綴っていけたらと思う。