しゅわしゅわな日々。

手話をかじりはじめた1児の母の徒然なるまなびの記。

あいまいにできない日本手話のせかい

前回の記事にて、うたを手話に翻訳することが、
実は複雑な事情や問題もはらんでいることについて、私情もはさんで述べてみた。

そもそも、手話には実際には二通りのものがあるらしい。

「日本手話」と「日本語対応手話」のちがい

私たちが日常生活で使う口語の日本語を、そのまま文節ごとに手話におきかえたもの、「日本語対応手話」
それに対して、ろう者の方々が独自に育んできた言語体系が「日本手話」
文法も異なるし、そもそも日本手話においては手の動きのみならず、目や,眉、口の動きなど表情豊かに表現することが求められる。

この二つの手話の間には大きな違いがあるのだけども、一般的に聴者には前者の日本語対応手話がわかりやすく認識されるので、
(今回私がつくってもらった手話うたも、音に対して手話を当てはめているので、日本語対応手話にあたる)
深層的な、日本手話や、ろう者の方々の文化への理解をむずかしくしてしまっている側面もあるのだとか…

ここについてはいま時点の私の浅い知識では誤解を生んでしまうかもしれないし、もっと勉強してからまた詳しく深堀して書いてみたいと思う。

今日書くのは、私が歌詞を手話に置き換えるにあたって、とても印象的だったこと。
手話が、日本語特有の「あいまいさ」を持たないということだ。

あいまい、では伝わらない

たとえば私が歌詞をつけた「ぽんせんのうた」という歌のフレーズは

♪まあるい気持ちでいたいけど、しかくやさんかくなときもある

と始まる。ここで手話の訳をつけてもらうアドバイスをもらう際に

「この、まあるい気持ち、しかくやさんかくな気持ちって具体的にどんな気持ちですか?」
と尋ねられ、しばし考えこんだ。

私自身、この歌詞をかいたときにイメージしたのは
まる=安心している、リラックスしている
さんかく、しかく=とげがある、心が穏やかじゃない
というものだったので、そのように伝えて、対応する手話をつけてもらった。

そのとき、そうか…気持ちに「まる」や「さんかく」「しかく」と形をつけて表現してみたとき、
「なんとなくニュアンスで伝わるよね?」という気持ちが私にはあった。
そもそも私がかいた手話には”主語”がない。
それはある特定のひとではなく、聴いてもらう人全員がどこかしら日々感じたことある思いに寄り添うものであってほしいという想いからであったけど。

その「あいまいさ」が日本語がもつ独特の文化であることを、改めて認識させられた。

ほら、想像つくでしょ?文脈で、わかってもらえるよね?
こういうのを「ハイコンテクスト文化」というらしい。
文脈によってことばの意味がかわる、文脈に大きく左右される言語体系の文化らしく、このあたりもとても興味深い。

手話というのは、日本語の複雑な同音意義語であったり、独特の比喩表現のようなあいまいさをある種、排したことばのようにも感じる。
(その分、表情や手の動きの勢い、大きさなど様々な要素で、より繊細に表現することもできるので、単純な言語であるようなことは到底ない。)
このあたりについては私の数少ない知識ではカバーできていない部分もあると思うので、お気づきのことがあればぜひご教授いただきたいところだけど…

ただ、私にはとてもそれが新鮮に感じられた。
相手にたいする”甘え”がないように感じたのだ。

暗黙の了解、不文律、そこには信頼もあるが相手に頼って、言葉足らずな部分もある。察してね、という甘え。

手話は、まず自分で表現するのだ。
ことばのあいまいさに依存せず、言葉を濁さず、相手にしっかりと見せて、伝えなくてはならない。
ことばに指の形を与えなくてはいけない。

この一種の覚悟にもみえるものに対して、
私はなんというか、尊敬の念を抱いてしまう。
あいまいさに逃げず、私も手話と向き合っていきたい。


とりあえず、まずこれを読んでみよう・・・