しゅわしゅわな日々。

手話をかじりはじめた1児の母の徒然なるまなびの記。

”なんちゃってダイバーシティ思考”をぶん殴られる一冊。

以前、記事でも引用したこちらの本を最近になったようやく読んだ。

『日本手話とろう文化-ろう者はストレンジャー』著:木村晴美 

ひとことで感想を述べるなら、

「手話ってダイバーシティ社会におけるボーダーレスな言語だよね!」
なんて心のどこかで思っていた過去の自分に鉄拳をお見舞いしてやりたい・・・!!

なにが多様性だ。
なにがボーダーレスじゃ。

お前(過去の私)日本手話*や、ろう者の方々の文化の何を知って、上から目線でものを言っておるのだ。
*詳しくは、過去の記事を参照のこと。

とおもわず頭を抱え込みたくなるぐらい、手話に対する思い込みというか先入観があった。

ご自身もろう者であり、手話通訳者として、また手話講座番組の講師や専門学校での講師などのキャリアをもつ著者の、
いわゆるただの”手話解説本”に留まらない、
”ろう者としてのわたしからみた、ここが変だよ今のニッポン!”がずらり。


個々のトピックについては、また記事をわけて書きたいのだけど、

一番印象にのこっている部分だけ書き出しておくことにする。

ろう者は”目”の文化を持つ人であること

このことに対して、わたしたちいわゆる”聴者”とよばれる人々がもっと
想像力を持たなくてはいけない
ということ。

ろう者がいる部屋のドアをノックすること、「いらっしゃいますか?」と声をかけることの無意味さ、無理解さ。
ろう者が”聴く”ことのない”音”に手話をあてはめたものを、さも”コラボレーション”のように手話うたとすること。
※こちらについては、過去の記事でもあげているけれど、この時点でも、ろう者の方がこうしたものに対して何がいやと感じるのか、
深い部分での理解は追いついていなかったと感じる。
ほか、本来、手話という独自の言語体系をもっているろう者の方々に当然のように”日本語”を理解し操ることを求めることなど…

仕方のないことなのだけど、結局はわたしたちは

自分の目線からしか、世界を理解することができない

これからの世界には”ダイバーシティ=多様性”が大切だ、
バリアを取り外そう
枠組みから自由になろう

とうたいながら、その実、自分たちがマジョリティ側の一方的な視点から抜け出せていないことに気づいていない
もはやこれを”なんちゃってダイバーシティ思考”と呼ばずしてなんと呼ぼう。

手話に興味がある
ということは、
何故手話という言語があるのか、
手話を使うろう者の方々はどういった文化や意識をもって日本で暮らしているのか

ここまで、”想像できる”ようになることが必要なのだと思う。

ああ、この本を読んだのが、

ひとつひとつの手話についてもっと詳しくなる前でよかった。

そうでないと、私は手話について知った気になって、実は何も知らない尊大なひと
になっていたかも。

”知らないということを知る”

すべてはここから、始まるのだと思う。

手話をこれから学びたい!という聴者なら必ず読んでおかなくてはいけない良書。ぜひ。

手話のまなびは好きなものから始めてみる。

さっそく三日坊主になりつつあるこのブログ。

書きたいときに書くのがいいペースと自負しているので、どうかご容赦いただきたい…

とはいえ、まなびは好きなものから入るのがサボりがちな自分への特効薬ということで、
こどもの時に出会った手話の世界への興味をもう一度呼び起こしてくれた漫画をご紹介。

『ゆびさきと恋々』作:森下suu

森下suu 『ゆびさきと恋々(1)』講談社 より抜粋

生まれたときから音をうまく聴きとることのできない主人公が、大学生活を送るなか、ある日

"自分をろう者として特別視するのでなく、
純粋にはなしたいという興味を持って接してくれる相手"

と出逢い、同時に自分の知らなかった気持ちや世界にふれ、惹かれ、拓かれていく

という物語。


ジャンル的にはまさに胸キュンラブストーリー(書いてみてちょっと気恥ずかしい)

でもそうしたストーリーもさることながら、とてもとても描写がていねいで素晴らしい。
手話の動きの美しさはもちろん、主人公の雪ちゃんのふとした瞬間の心の動きや、リアルさを感じる日常生活の断片。

なんというか…例えがあっているかは分からないけど、"ろう者"としてではなくて、"等身大のひとりの女性"として描かれている。

セールで可愛いワンピースが手に入って顔がほころぶ。
SNSで目にするかわいいものや綺麗なものに心躍らせ、
気になる相手に恋人がいるのか、どんな女の子が好きな好きなのか、気になってしまう。

ただ、そこにないのは"音"だけ。

つい、私たちは”耳が聴こえない人々”という枠のなかでイメージが先行してしまい、彼、彼女たちが私たちのすぐ隣にいるかもしれないとは考えない。
そうやって、知らず知らずのうちに、意識の外に置いている。

大学生活には、パソコンテイクという授業の内容をキーボードで打ち込んでサポートしてくれるボランティアがいてくれるということも、初めて知った。


ノートテイクのボランティアがアツい!コツや練習方法を教えます│つれづれ情報

この漫画においては、そこまで彼女の境遇に対する悲壮感や深刻さに切り込むような描き方をしていない。
そこが主題ではないのだと思うし、そういうある種、偏ったとらえ方をしていないのだと思う。

ただ、日常生活の描写なかに「あ、こんなことがあるのかもしれない」と感じさせる部分がある。

・会話をききとることができなくても、なんとなく自分の耳のことを話しているのを察してしまう、
・友達がスキンシップで後ろから抱き着いてきてびくっとする(そのあと、事情を知ってフォローしている)
・大学では手話を使いたいけど、ちょっと控えている(その代わり、読唇や筆談をつかう)
・せっかく憧れの先輩とふたりきりの時間なのに、視線を外していたことで相手が話していることに気づかない
(ここではあえて会話の合図をだしていないから独りごとに近いのだが…)
・相手と顔を合わせづらい状況でも、相手の顔をしっかりみないとコミュニケーションができない

ほかにも、ちょっとした部分部分にちりばめられているリアルさが、ひとつひとつ、「ああ、知らなかったな」と思うことだらけなのだ。

この漫画においては、主人公の雪ちゃんのモノローグがとても味わいぶかく、抒情的なんだけれど、
実際に彼女が主人公でなかったら、彼女の胸の内を伺い知ることができるのだろうか?
(この場合、主人公ががんがん自分の気持ちを表現する性格でないこともあいまって)

実際は、言葉が話せたとしてもそれをすべて話せるわけではないから、同じことかもしれないけれど。

また、セリフの表記にも工夫があって、
主人公が読唇で読み取っているセリフは薄い灰色で表記され、ところどころ、読み取りづらい部分が文字が反転していることで、ききとりづらい子音や音があることが分かる。こういう細かな部分にも、発見がある。

1巻では実はなかなかまだ縮まらないふたりの距離。
でも、印象深いセリフがある。

「昔、海外に住んでて、自然と言語やカルチャーに興味をもって、自分を突き動かすものがそれになってて、
遠くにばっか目を向けてたけど、こんな近くにも いたんだなって。」


そうなのかもしれない。私たちが気づいていないだけで。
日常のなかのほんのすぐ目と鼻の先に、自分が知らなかった世界がある。

そんなことを教えてくれるこの漫画。
手話を抜きにしてもとても面白い。ぜひちょっと読んでみてほしいな。


あいまいにできない日本手話のせかい

前回の記事にて、うたを手話に翻訳することが、
実は複雑な事情や問題もはらんでいることについて、私情もはさんで述べてみた。

そもそも、手話には実際には二通りのものがあるらしい。

「日本手話」と「日本語対応手話」のちがい

私たちが日常生活で使う口語の日本語を、そのまま文節ごとに手話におきかえたもの、「日本語対応手話」
それに対して、ろう者の方々が独自に育んできた言語体系が「日本手話」
文法も異なるし、そもそも日本手話においては手の動きのみならず、目や,眉、口の動きなど表情豊かに表現することが求められる。

この二つの手話の間には大きな違いがあるのだけども、一般的に聴者には前者の日本語対応手話がわかりやすく認識されるので、
(今回私がつくってもらった手話うたも、音に対して手話を当てはめているので、日本語対応手話にあたる)
深層的な、日本手話や、ろう者の方々の文化への理解をむずかしくしてしまっている側面もあるのだとか…

ここについてはいま時点の私の浅い知識では誤解を生んでしまうかもしれないし、もっと勉強してからまた詳しく深堀して書いてみたいと思う。

今日書くのは、私が歌詞を手話に置き換えるにあたって、とても印象的だったこと。
手話が、日本語特有の「あいまいさ」を持たないということだ。

あいまい、では伝わらない

たとえば私が歌詞をつけた「ぽんせんのうた」という歌のフレーズは

♪まあるい気持ちでいたいけど、しかくやさんかくなときもある

と始まる。ここで手話の訳をつけてもらうアドバイスをもらう際に

「この、まあるい気持ち、しかくやさんかくな気持ちって具体的にどんな気持ちですか?」
と尋ねられ、しばし考えこんだ。

私自身、この歌詞をかいたときにイメージしたのは
まる=安心している、リラックスしている
さんかく、しかく=とげがある、心が穏やかじゃない
というものだったので、そのように伝えて、対応する手話をつけてもらった。

そのとき、そうか…気持ちに「まる」や「さんかく」「しかく」と形をつけて表現してみたとき、
「なんとなくニュアンスで伝わるよね?」という気持ちが私にはあった。
そもそも私がかいた手話には”主語”がない。
それはある特定のひとではなく、聴いてもらう人全員がどこかしら日々感じたことある思いに寄り添うものであってほしいという想いからであったけど。

その「あいまいさ」が日本語がもつ独特の文化であることを、改めて認識させられた。

ほら、想像つくでしょ?文脈で、わかってもらえるよね?
こういうのを「ハイコンテクスト文化」というらしい。
文脈によってことばの意味がかわる、文脈に大きく左右される言語体系の文化らしく、このあたりもとても興味深い。

手話というのは、日本語の複雑な同音意義語であったり、独特の比喩表現のようなあいまいさをある種、排したことばのようにも感じる。
(その分、表情や手の動きの勢い、大きさなど様々な要素で、より繊細に表現することもできるので、単純な言語であるようなことは到底ない。)
このあたりについては私の数少ない知識ではカバーできていない部分もあると思うので、お気づきのことがあればぜひご教授いただきたいところだけど…

ただ、私にはとてもそれが新鮮に感じられた。
相手にたいする”甘え”がないように感じたのだ。

暗黙の了解、不文律、そこには信頼もあるが相手に頼って、言葉足らずな部分もある。察してね、という甘え。

手話は、まず自分で表現するのだ。
ことばのあいまいさに依存せず、言葉を濁さず、相手にしっかりと見せて、伝えなくてはならない。
ことばに指の形を与えなくてはいけない。

この一種の覚悟にもみえるものに対して、
私はなんというか、尊敬の念を抱いてしまう。
あいまいさに逃げず、私も手話と向き合っていきたい。


とりあえず、まずこれを読んでみよう・・・

単純じゃない、うたを手話にするということ

”手話歌”ってきいた(みた)ことがあるだろうか?

手話歌とは、童謡でも、J-POPでも、歌をうたいながら、その歌詞に応じた手話訳をつけて、
手振りを交えながら歌われる楽曲のこと。

いま結構増えているようで、教育現場でも、動画配信サイトなんかでも増えてきているようす。

実は、この手話について語るブログを書き始めた背景にも、
私自身が企画者となり、歌い手さんにうたってもらい、アニメーションをつけてもらって、オリジナルの手話歌にあたるものをつくったことがある。

www.youtube.com

これについては、手話に通じている知人を頼って手話を教えてもらったり、クリエイターさんたちにも思いを共有して、
アニメーションもなるべく親しみやすく、わかりやすく、かわいらしく作ってもらったり、いろいろ工夫や苦心はした。

これを通じて、「手話ってこんな風なんだ!」と興味をもってもらえる方が出てきたらたしかに嬉しいとは思う。

ただ、その一方で「うたを手話にすること」がそんなに単純でないことも、ある程度理解もしているつもりだ。

そのうたは、だれにむけたものか

私がはじめ、手話歌をつくりたいと、知人に相談したとき、

「これは前提として、話しておきたいことなんだけど…
 ろう者(聴覚に障害があり、日常的に手話や、筆記、日本口語とは異なる手法でコミュケーションをとることが多い方々)の人たちの中には、
”手話歌”を喜ばないひともいる、批判するひともいるってことを知っておいてほしいんです。」

ということをまず教えてもらった。

「ろう者の人たちが聴こえない”音楽”に、手話をつけて(ろう者の方にむけて)わかりやすくしたよ、というのは、
聴者(耳が聞こえて、口語も普通にできる)の独りよがりになる可能性もある。
聞こえる側の一方的な押し付けのようにもみえるかもしれない。」

がつーんと何かを頭がうつような気がした。

そうか…私にはそこまでの思慮もなかったし、そんな深い考えもなかった。
このことをはっきりと言語化してくれている記事もある。↓
note.com

とても分かりやすいし、考えさせられる。

それを考えたうえで、私はつくりたいと踏み切ったわけなのだが、
それはだれにむけてつくろうと思ったのか、という点がある

だれもが、想いをつたえるひとつの方法として

前回の記事でも綴っているが、私がいま手話に惹かれているのは、
コミュニケーションのありかたとして、手話というもの自体がとても魅力的だと思うためだ。
そして、聴覚にかかわらず、だれもが「みる」ことば、「体で表わす」ことばとして、
使えていいものだと思うためでもある。

手話をひとつの言語文化として育んできた方々の努力や苦労には本当に敬服してやまない。
所詮聞こえる側の自己満足でしかないと思う方がいても止む無しではあるけれど、

「知らない」ことは、「ない」ことになってしまうのがもったいない。
だってとても素敵なものであるのに。

感覚的に想いを伝える方法のひとつとして、手話があってもいいのではないかと思う。

私は、小学生のときに初めて、音楽の時間に手話をつけた歌に出会った。
それを今でも体で覚えているくらい、体の動きと、言葉と、こころのうごきが重なるという経験は鮮烈なものだった。
当時はそこまで深く考えていなかったけれど・・・


でも、自分の知らない世界をしること、それをもっと知りたいと思うこと、
それがどのような手段であっても(誰かを故意に傷つけるものでなければ)
あってもいいのではないかな。

ろう者の方々が大切に守ってきた文化を一方的に、横取りするのではなくて、
一緒に同じ暮らしをいきるなかで、育んでいけたらいいのに。

私もまだまだ勉強不足であるけれど、
そういうことも含めて、手話歌をつくってみて、とても大きなまなびがあった。
そんな発見ひとつひとつも、これから少しずつ綴っていけたらと思う。

私が手話に惹かれる理由。

はじめまして、こんにちは。
唐突に始めたこのブログですが、ご覧の通り、「手話」についてぼちぼち綴っていくつもりです。

そもそも、なぜ「手話」について書きたいのか、そもそも手話に興味を持ったのかというのが今回のテーマ。



といっても、実ははっきりとした動機があるわけでも、まなびの意欲や熱意にあふれているわけでもないのが正直なところなのです。
仕事に関係があるわけでもないし、それを仕事にしたいというわけでもなく、
周囲に手話でコミュニケーションをとる必要のある相手がいるわけでもない。
それなのに、
なぜか、惹かれる。なぜなのだろう。

自分でもそのもやもやをはっきりと輪郭づけたくて、書き始めたというところでもあります。
そして、ついついさぼりの欲にひきずられそうになる自分に、まなびの気持ちの根っこをしっかり張らせたいという意味もあります。

ちょっと脱線しましたが。

「私が手話に惹かれる理由」
明確な答えがあるわけではありませんが、ひとつ挙げられるとすれば、

「とても感覚的で、身体的なコミュニケーションであると思えるから」
んんん、余計にわかりづらくなってきました。

例えばなんですが、私にはいま4歳になる娘がおります。
彼女とはもうすっかり日本語での意思疎通がとれるようになってしまったのですが、ほんの数年前までは、
生まれたばかりの彼女とのコミュニケーションは、言葉ではできなかったのです。

私が何かを伝えようとするとき、言葉には出しますがそれだけでは伝わらないことも多々ありました。
目でみて、表情を変え、手で指さし、時には手や体を動かして、身振り手振りして”伝えよう”とする努力が、
大人同士のコミュニケーションとは違った形で必要になります。

赤ん坊であった娘にとってはそれはもっとストレートなもので、泣く、暴れる、笑う、あの手この手…

言葉に安易に頼ることに慣れてしまった自分にとってなかなかチャレンジングな日々でもありましたし、今となってはいい思い出だけれど、
「ことば」の便利さと、ある面での頼りなさのようなものに気づいたというか…

なんかこれ、もっとシンプルに伝わるよね、という感覚。
というか、実は大人同士のコミュニケーションにおいても、実は言葉よりもそれ以外のことで相手に伝わってしまうことがある。
目は口ほどにものを言う。というやつですか。こういうのを非言語コミュニケーションともいうらしい。

なんだかまた話が少しずれてきましたが・・・

詰まるところ、私が手話に惹かれるのは、
「ことば」を介さないことで、よりもっと、自分の身体をつかって、感覚的に相手に自分の想いを伝えるためのひとつの表現のように思えるから。

これは、私が実際にろう者の方の切実さを持っていないお気楽な感覚なのかもしれませんが…

でも、手話を”ろう者の方が使う言語”って枠でくくってしまう方が勿体ないな、と思う気持ちがあるのです。

知れば知るほど、手話ってとてもよくできていて、
ジェスチャーに近い部分も一部あり、
ちいさな子でも、感覚的につかめて、ストレートに表現できるな、と思うところが沢山あります。

そういう目からうろこな発見を、ひとつひとつ、手話をしることでしていけそうな気がする。

私たちが言葉を発することを当たり前にしすぎて忘れてしまいがちな、
コミュニケーションの根っこにある 相手になんとか伝えたいという衝動。

手話には、そんな魅力が詰まっている、気がする。(まだ私がよく知らないだけで)
だからもっとまなんでいきたい。

それが私が手話に惹かれる理由の大元なのだと思います。