しゅわしゅわな日々。

手話をかじりはじめた1児の母の徒然なるまなびの記。

私が手話に惹かれる理由。

はじめまして、こんにちは。
唐突に始めたこのブログですが、ご覧の通り、「手話」についてぼちぼち綴っていくつもりです。

そもそも、なぜ「手話」について書きたいのか、そもそも手話に興味を持ったのかというのが今回のテーマ。



といっても、実ははっきりとした動機があるわけでも、まなびの意欲や熱意にあふれているわけでもないのが正直なところなのです。
仕事に関係があるわけでもないし、それを仕事にしたいというわけでもなく、
周囲に手話でコミュニケーションをとる必要のある相手がいるわけでもない。
それなのに、
なぜか、惹かれる。なぜなのだろう。

自分でもそのもやもやをはっきりと輪郭づけたくて、書き始めたというところでもあります。
そして、ついついさぼりの欲にひきずられそうになる自分に、まなびの気持ちの根っこをしっかり張らせたいという意味もあります。

ちょっと脱線しましたが。

「私が手話に惹かれる理由」
明確な答えがあるわけではありませんが、ひとつ挙げられるとすれば、

「とても感覚的で、身体的なコミュニケーションであると思えるから」
んんん、余計にわかりづらくなってきました。

例えばなんですが、私にはいま4歳になる娘がおります。
彼女とはもうすっかり日本語での意思疎通がとれるようになってしまったのですが、ほんの数年前までは、
生まれたばかりの彼女とのコミュニケーションは、言葉ではできなかったのです。

私が何かを伝えようとするとき、言葉には出しますがそれだけでは伝わらないことも多々ありました。
目でみて、表情を変え、手で指さし、時には手や体を動かして、身振り手振りして”伝えよう”とする努力が、
大人同士のコミュニケーションとは違った形で必要になります。

赤ん坊であった娘にとってはそれはもっとストレートなもので、泣く、暴れる、笑う、あの手この手…

言葉に安易に頼ることに慣れてしまった自分にとってなかなかチャレンジングな日々でもありましたし、今となってはいい思い出だけれど、
「ことば」の便利さと、ある面での頼りなさのようなものに気づいたというか…

なんかこれ、もっとシンプルに伝わるよね、という感覚。
というか、実は大人同士のコミュニケーションにおいても、実は言葉よりもそれ以外のことで相手に伝わってしまうことがある。
目は口ほどにものを言う。というやつですか。こういうのを非言語コミュニケーションともいうらしい。

なんだかまた話が少しずれてきましたが・・・

詰まるところ、私が手話に惹かれるのは、
「ことば」を介さないことで、よりもっと、自分の身体をつかって、感覚的に相手に自分の想いを伝えるためのひとつの表現のように思えるから。

これは、私が実際にろう者の方の切実さを持っていないお気楽な感覚なのかもしれませんが…

でも、手話を”ろう者の方が使う言語”って枠でくくってしまう方が勿体ないな、と思う気持ちがあるのです。

知れば知るほど、手話ってとてもよくできていて、
ジェスチャーに近い部分も一部あり、
ちいさな子でも、感覚的につかめて、ストレートに表現できるな、と思うところが沢山あります。

そういう目からうろこな発見を、ひとつひとつ、手話をしることでしていけそうな気がする。

私たちが言葉を発することを当たり前にしすぎて忘れてしまいがちな、
コミュニケーションの根っこにある 相手になんとか伝えたいという衝動。

手話には、そんな魅力が詰まっている、気がする。(まだ私がよく知らないだけで)
だからもっとまなんでいきたい。

それが私が手話に惹かれる理由の大元なのだと思います。